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「…どうして思い出せないんだろうな…」 渋沢は静かに呟いた。 彼の穏やかに眠る姿を見ても何も浮かばない記憶は、ただ胸の疼きばかりを与えて。 「なぁ…どうして…」 問いかけともつかない言葉に、返事はなく。 ただ思い出せないだけなのならいい。 それは無関心と一緒。 何もないのと同じ。 舞い散る桜のひとかけらに特別な感情を抱かないように、ただの他人として、知らぬ人として見ることが出来る。 なのに、思い出せないのに。 胸ばかりが痛む。 確かに彼の記憶が存在していたことの証しとして。 それが、辛かった。 初めは写真からだった。 綺麗な桜の写真だった。 懐かしさすら感じるような大きな桜。 それが人に形を変え。 見えた姿を確かに嬉しいと感じたのに。 焦りが生まれて。 苛立ちも焦燥も。 何故思い出せないのか。 自分ひとりが。 それが辛くて。 自分が引き金だったことが、悔やまれて。 「…思い出さなければ良かったのかな」 「それが願いか?」 思わず口に付いた呟きに。 彼の声が追った。 慌てて顔を上げる。 思いのほか近くにあった彼の顔に息を呑む。 それにあわせて姿はすぐに掻き消え。 代わりに周りの桜が音もなく揺れ始めた。 なのに耳を障るのは桜の喧騒。 「どういう…ことです?」 渋沢は慎重に問いかけた。 だが桜の声に消されないよう、しっかりと。 「問いは要らぬ」 姿はないのに、近くに感じる声。 「必要なのは願い」 桜に囲まれていた。一緒に来たはずの二人の姿もなかった。 「さくらのもりは願いを叶える」 足元の水面が静かにざわめく。 「心より望むものの、願いを」 ── 彼は願った ── 人としてあることを ── 彼は願う ── 消滅えるときに全ての記憶を眠らせることを ── 彼らは願った ── 彼の記憶には触れないことを ── 彼らは願った ── 彼を思い出すことを ── 彼を見つけることを ── 願いはすべからく叶えられる ── では お前は? 「何を望む?何を願う?桜が呼応しても抱くのは疑問と罪悪ばかりのお前は、心より何を望む?」 「俺が……彼を、思い出すことを望んでいないと?」 「思い出せ。今までの自らの心を。何を望んだ?何を願った?お前は何一つ、望んではいない」 愕然とする。 思い出せないのは自分のせいなのだと突き付けられた。 「きっかけは与えたはずだ。桜を懐かしいと感じたのだろう?そうしてここまで辿り着いた」 「…そうだ。俺は、彼を思い出したくて」 渋沢は呆然と呟いた。 「ここまで来て…」 それは願いではなかったと言うのか。 「彼に、会いたくて…」 「では、改めて問おう」 桜が啼いた。 掻き乱す声が耳元で囁いた。 「何事もない。ここにあるのは桜のほんのひとかけら」 彼の声が。 「舞い散る森のかけらを、思い出さぬのは人としての性」 問いかけ。 「そこにあることを知らず、気付かず、忘れることもまた道理」 静かに。 「だが思い出すことも、ひとかけらを手中に取ることも、人の理」 決断を迫る。 「花を愛でるか?そこにあることを認めるか?思い出すことが必ずしも幸福とは限らない。お前が今の今、名を呼ばれようとも望まなかったのがそれを証明しているのではないか?それでも望むか?どんな記憶が待っていても?」 彼を見下ろした。 たゆたう水の中、ただ眠る彼を。 「桜は夢を見ない。夢は願望。叶えるべきもの。抱くものではない。だが桜は綻ぶ。廻る時がそれを綻ばせる。彼が抱いた願いが綻び始める」 とうとうと告げられる言葉は。 「さて、お前はどうする?」 彼が嗤ったような気がした。 渋沢は目を閉じた。 「俺は…」 |